アルマン・ド・ブルボン (コンティ公)
アルマン・ド・ブルボン=コンティ Armand de Bourbon-Conti | |
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初代コンティ公 | |
在位 | 1629年 - 1666年 |
出生 |
1629年10月11日 フランス王国、パリ |
死去 |
1666年2月21日(36歳没) フランス王国、ラングドック、ペズナ |
配偶者 | アンヌ・マリー・マルティノッジ |
子女 |
ルイ・アルマン1世 フランソワ・ルイ |
家名 | ブルボン=コンティ家 |
父親 | コンデ公アンリ2世 |
母親 | シャルロット=マルグリット・ド・モンモランシー |
宗教 | キリスト教カトリック |
サイン |
アルマン・ド・ブルボン=コンティ(フランス語: Armand de Bourbon-Conti, prince de Conti、1629年10月11日 - 1666年2月21日)は、フランスの貴族。コンティ公。
生涯
[編集]コンデ公アンリ2世の次男として、パリで生まれた。姉にロングヴィル公爵夫人アンヌ、兄にコンデ公ルイ2世がいる。1629年にコンティ公位を授けられた。次男ということで聖職者となることが決まっており、ブルジュ大学で神学を学んだ。しかし聖職に就くのを受け入れたとはいえ、彼には役職はなかった。アルマンは兄ルイ2世とともにフロンドの乱で戦い、異彩を放った。1648年には反乱軍司令官となった。1650年、アルマンは捕らえられ、ヴァンセンヌ要塞の虜囚となった。
風変わりな神秘思想に支配されるようになったアルマンは、監獄の中で少し精神に異常をきたした。姉アンヌに愛情を抱き、彼女に自分の気持ちを何とかわかってもらおうとした。彼は化学にこりだし、時には毒薬をこしらえたり、すぐに自身で打ち身だらけになるようになった。その狂った様子が最終的に運命を決めた。アルマンは医師や他人の援助を拒否したりしなかったのである。支援者たちが、精神に異常をきたしたアルマンを釈放しようと運動したのだった。
マザランが亡命すると、アルマンは自由の身となった。彼は王妃アンヌ・ドートリッシュの有名な女官シュヴルーズ令嬢(シュヴルーズ公爵夫人マリー・ド・ロアン=モンバゾンの次女)との結婚を望むが、国の最高権力者となった兄ルイ2世に阻まれた。アルマンは1651年にフロンド派に与したが、すぐにマザランと和解し、1654年にマザランの姪アンヌ・マリー・マルティノッジと結婚し、ギュイエンヌの知事に任命された。アンヌとの間には2子をもうけた。
1654年、アルマンは軍を率いてカタルーニャへ侵入、スペインから3つの都市を奪った。彼はのちフランス軍を率いてイタリアへ向かうが、1657年にアレッサンドリアで打ち負かされラングドックへ撤退した。彼はその後学問に没頭するようになり、亡くなるまで神秘思想の追求をした。
クレルモンにおいて、彼はモリエールを師と仰ぎ、ルイ14世の宮廷に紹介した。
参考文献
[編集]- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Conti, Princes of". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
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